東京芸術大学での上野千鶴子先生との講演

10月4日は東京芸術大学の学生さんの勉強会に呼ばれました。社会学者で東京大学名誉教授の上野千鶴子先生と一緒に登壇させていただきました。

講演のテーマは「特に無し」。なんともテキトーな感じでしたが、わたしは以前から上野先生に聞いてみたいことがあったので、このお話を頂いた時、迷うことなく受けました。

上野先生は、言うまでもなく日本を代表する有名なフェミニスト。日本で初めて、岩波書店で「おまんこ」をれんこしたご著書を出され、女性の権利や身体を男性中心社会から取り戻そうと活動されてきた方だと認識しています。

その上野先生が、2016年7月27日の朝日新聞「耕論」にてわたしの事件について取り上げてくださいました。

http://www.asahi.com/articles/DA3S12481291.html

わたしはこの記事を読んだ時、正直、理解できませんでした。基本的に「ろくでなし子さんは完全に無罪」と言ってくださったのはありがたいのですが(フェミニストなら当然だと思います)、その後に続く、”「性器を自分自身に取り戻す」と言いながら、大切な性器のデータがあずかり知らぬ形で消費されても関知しないというのは無責任です」「何より、アーティスト自身が傷つかないのでしょうか」「彼女の無防備さに、セクハラが蔓延する男性中心の社会で「わたし、これくらいは大丈夫なのよ」と言いながら、感受性を鈍くして生きてきた現代女性の「鈍感さ」を感じます。」そして最後にこうしめくくられるのです→「それがセクハラ文化につけこまれる可能性にも敏感であってほしいです。」

…今改めて読み返しても、頭の中が「?」マークだらけです。

上野先生は、それまで女性が口にできなかった自らの身体の名称「おまんこ」をれんこする事により、わたしよりも30年も前に、重たくいやらしいイメージの女性器をカジュアルなものに変えようとした方です。twitterの上野千鶴子botでも、「「当事者主権」とは「わたしのニーズはわたしがいちばんよく知っている」、だからわたしのニーズがいつ、いかに、誰によって、どのように満たされるべきかはわたし自身が決める、という権利のことである。『ニーズ中心の福祉社会へ』(2008)」と仰られています。(参照 https://twitter.com/BotUenobot/status/783343788043345922 )

その先生が、なぜ今、まるで道徳的で保守的なお父さんみたいな事を言っているのか…?

わたしの意見を言わせていただきます。

わたしは女性器(まんこ)がこの国であまりにもタブーとなった原因のひとつは、まんこが隠されすぎて特別な物になり過ぎたからで、ならば手足や顔、口の中と同じくらい見慣れてしまえばそんなにグロテスクな物に感じないのでは?と考えました。現に、わたしをインタビューするメディアの方も、「私(僕)はあの3文字が言えなくて…」と最初は抵抗を示していた人でも、わたしがあまりに取材中にまんこまんこ言うので耳が慣れてしまい、1時間後には「なんか平気になっちゃいました!」と言って帰られる方も多い。だからわたしは、まんこなんて特別なものでも何でもない、日常生活に自然と溶け込ませたらいいのでは?と思い、まんこのプロダクトアートを作ろうと決めました。それで、まんこをiPhoneカバーや照明器具、マグカップの飲み口部分、まんこのアプリゲームやまんこのかわいいキャラクター、果てはまんこのボートまで作りました。

つまり、上野先生の言うところの「消費に鈍感」どころか、わたしは「積極的に消費をアピールする作品を作ってきた」のです

さらに、わたしは二回も逮捕されても自分の信念を曲げることなく無罪を主張し続けていますが、こんな事で無駄にがんばらずとも、さっさと罪を認めて罰金払えば面倒臭い刑事裁判などもしなくて済んだはずですが、それをせずに闘う方を選んだのも、自分の表現活動にそれだけ誇りを持っているからです。上野先生は「今はよくても、何年か経って気が変わった時、すでにインターネット上でその作品が出回っていたら本人が傷つく場合もあるから」ともこの講演の中で仰っていましたが、その程度で気持ちが変わるならそもそもこんな表現活動してませんし、後悔することを前提に捉えられているのなら、わたしに対して失礼じゃないかと思いました。

そして、「消費されることへの責任」についても、べつにまんこアートに限らず、世の中のあらゆる作品や販売物は、それがたとえ性的なことを意図していなくても、どのように捉えるかは消費する側の自由です。極端なことを言えば、十字架に性的に興奮する人もいます。そのような個人の受けとり方の全てを作者が背負わないといけないのなら、わたし達表現者は何も表現できなくなってしまいます。(まして、わたしが3Dデータを配ったのは支援者や賛同者であって、このデータを見たくもない人にやみくもに送ったりもしていません)朝日新聞の耕論の上野先生の意見に従ったら、表現者は何もできなくなってしまう…。

長くなりましたが、とにかくこの件について、わたしはじっくり先生とお話ししたかったのです。決して「喧嘩をしに行く」つもりではありません。わたしは自分と反対意見の人とも話をするのが好きです。自分には無かった知識や「へぇ、そういう捉え方もあるのか」と気づくこともできるからです。

先生のご著書の「スカートの下の劇場」はとても楽しく拝読しましたが、最近のご著書は少し男性批判に偏りすぎていて読むのがしんどく感じていました。なんとなく、攻撃的な方なのかな?と少し緊張して会場に向かいました。しかし、実際にお会いした上野先生は、おだやかでとても温かみのある方でした。ご著書までプレゼントしていただき嬉しかったです。勝手に怖い人だと思いこんでいた事を心の中でお詫びしました。

講演では会場の質疑応答を優先されてしまったため、時間がとても足りなくて、上記に書いたわたしの思いを十分に伝えることができなかったのが残念でなりません。そして上野先生が「消費されることについての責任」について、会場でもご説明されていましたが、やっぱりわたしには最後までよくわかりませんでした。

しかし、それでもお会いして本当によかったなぁ!と思うのが、上野先生は「反対意見の人とも楽しくディスカッションされる方」だという事です。よく考えれば当たり前のことなのですが、これが理解できない人が、日本にはとても多い。つい最近も、アムネスティ日本の講演に呼ばれた際、「ろくでなし子なんかを呼ぶな!」とイベント中止を訴える人達がいました。彼らは主にネット上のわたしのアンチですが、その根底には「俺たちの意見に同意しないから気に食わない」という強い意志を感じます。人には人の数だけ色んな考え方があって当然です。なのに、どうも同じ意見じゃない人を仲間はずれにしたり、大勢で個人を叩きたがる不健康な人が多いように感じます。ロビイングに行くことさえ「裏切り」と言う人もいます。これでは何の歩み寄りも発展性もありません。違う意見の人同士が理解しあうことは難しくても、それぞれの違いを認め合うことはできます。

agree to disagree という英語のことわざがあります。

わたしは意見の一致は求めていません。でも、拒絶するのでなく、違いを認めあってお互いを否定しなければ、共存は可能です。敵対は戦争につながるだけで、わたしは好きじゃない。そして、様々な意見が飛び交うことにより、他の人達もそれについて考え、議論が活発になる。それはとても良いことではないでしょうか?

今回、もう一つ残念だったのは、本講演を取材したいというメディアを運営が直前に断っていたことです。わたしの知らない様々な事情があるかもしれないので一方的に決めつけてはよくないのですが、学生のためのイベントではあっても、門を閉ざすのでなく、表現の自由についての議論を多くの人に知ってもらうべきではないかと思いました。アムネスティの時の様にたとえ批判が殺到したとしても、言論の人と表現の人のトークならば尚更、「批判どんとこい!」というのがわたしのスタンスです。

わたしは来月にはアイルランドに旅立ちますが、アトリエもそのまま賃貸し続け、時々日本にも戻って来るつもりです(裁判もあるし)。またこの様なイベントに呼んで頂けたら嬉しいです。

上野先生、学生の皆さん、会場にいらしてくださった皆様、楽しい時間をありがとうございました。

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